冥界へ下る話を比べる時は、最初に「どの資料を読むか」を決めたい。同じ女神の名が出ていても、別の言語で伝わる本文まで同じとは限らない。この棚では、まずイナンナとイシュタルの二つの資料を並べ、それから日本・ギリシャの物語へ進む。詳しい結末は閉じてあるので、先に原典や一夜の語りを読むこともできる。
同じ問いとは何か — 誰が、何のために下るのか
妻を連れ戻しに行く者、自ら下る女神、さらわれる娘。冥界へ行くという出来事が似ていても、目的や立場は違う。「死者の国から戻れるか」を共通の問いにすると、その違いを見つけやすい。ただし、これだけが各物語の意味だということではない。
比較のメモには、人物・目的・条件・転機・結末の五つの欄を用意する。書かれていない理由や、読む範囲の外にある出来事は、無理に埋めなくてよい。
体系別の語り分け — まず二つの資料を選ぶ
夜更けの織り機の前で、ユキが「イナンナとイシュタルは別の女神ですか」と尋ねたことがある。ツグミは同じ織り目に二色の糸を通して答えた。「同じ女神に、名が二つ伝わっています」。イナンナはシュメール語の名、イシュタルはアッカド語の名で、同じ女神を指す。
ただし、名前の対応と本文の一致は別のことである。以下の「版」は、読む言語・資料・現代の翻訳を区別するための呼び方であり、単なる長い版・短い版という意味ではない。
| 読む資料 | 地域・言語 | 今回の確認範囲 |
|---|---|---|
| イナンナの冥界下り | メソポタミア・シュメール語 | オックスフォード大学ETCSL、作品番号c.1.4.1の公開英訳。異読・欠落の表示を含む |
| イシュタルの冥界下り | メソポタミア・アッカド語 | SOAS公開英訳1–125行。B. R. Foster『Before the Muses』(2005年)の訳を一部変更した掲載 |
2005年は現代の翻訳書の年であり、神話が生まれた年ではない。ETCSLの更新履歴もウェブ翻訳の編集記録である。古代の成立時期や写本の年代まで、この二つの公開ページだけで一つに決めることはしない。
結末の手前で比べる三つの項目
| 観点 | イナンナ(ETCSL) | イシュタル(SOAS) |
|---|---|---|
| 1. 人物 | 女神自身が姉の冥界へ向かう | 女神自身が姉の冥界へ向かう |
| 2. 目的として述べること | 門番への説明では、姉の夫の葬送を理由に挙げる(85–89行) | 冒頭で冥界へ向かう意志を示す(1–7行)。同じ葬送の説明はこの箇所にない |
| 3. 通過の条件 | 七つの門で装いや持ち物を外される(129–163行) | 七つの門で装いや持ち物を外される(42–62行) |
二列の「目的」を見てみよう。一方の説明が空いて見えても、もう一方の理由を書き足さない。それだけで、二つの語りを別々に読む準備になる。
転機と帰還を比べる(結末を含む)
| 観点 | イナンナ(ETCSL) | イシュタル(SOAS) |
|---|---|---|
| 4. 転機 | 命を失い、エンキの働きかけによる救出へ進む(164–172、217–281行) | 病を負わされ、エアの働きかけによる救出へ進む(63–118行) |
| 5. 帰還に続くこと | 身代わりの要求があり、ドゥムジが引き渡される(282–289、348–358行) | 命の水を受け、門を出るごとに装いを返される(111–125行)。掲載はここまで |
ETCSL後半には欠落や読みの不確かな箇所がある。SOASの掲載は抜粋であり、その先を掲載していないことは、作品に続きがないという意味ではない。二つを接ぎ合わせて完全な一筋にせず、ETCSLの該当行とSOASの本文・英訳に戻って確かめたい。
日本とギリシャへ、比較を広げる
ここからは『古事記』上つ巻、「デーメーテール讃歌」、オウィディウス『変身物語』巻十に読む範囲を絞る。イザナギとオルペウスは妻を追う側、ペルセポネーは連れ去られる側である。なお記紀の神々は神道として今も生きた信仰につながっており、この棚では文献の物語を比較する。
三つの物語の条件と結末を見る
| 資料・人物 | 帰還に関わる場面 | その資料での結末 |
|---|---|---|
| 『古事記』上つ巻・イザナギとイザナミ | イザナミは黄泉の食を口にしている。相談の間、姿を見ないよう求める | イザナギが姿を見て逃れ、黄泉比良坂を塞いで別れる |
| 「デーメーテール讃歌」・ペルセポネー | 冥界でザクロを口にする | 一年の三分の一を冥界で、残りを母のもとで過ごす定めになる |
| 『変身物語』巻十・オルペウス | 妻を連れ出す間、振り返らないことを求められる | 地上へ出る前に振り返り、妻を再び失う |
これは各資料の該当場面の要約である。無料で読む場合は、武田祐吉訳『古事記』、Nagy訳「デーメーテール讃歌」、More訳『変身物語』巻十を開ける。下の日本語書籍とは翻訳が異なる。ペルセポネーの期間を、別の作品にある日数・月数で置き換えない。オルペウスについても、ここでは巻十の帰還の試みに範囲を限っている。
共通する型 — どの話にある場面かを添える
「食」と「見ること」は、全部の話に共通する一組の規則ではない。黄泉の食とザクロは食べ物をめぐる比較、イザナギとオルペウスは視線の禁をめぐる比較になる。七つの門は、上のメソポタミアの二資料で確かめる項目である。
一緒に読む相手がいるなら、「誰が下るのか」「何を守るよう求められるのか」のどちらかを一つ選び、該当する表の行を指して話してみる。怖いと感じる箇所や読みたい順番が違っても構わない。答えをそろえるより、その読み方の手がかりがどこにあるかを確かめる。
似ていることと、伝わったことを分ける
場面が似ていることは、本文を並べて確かめられる。一方、どちらからどちらへ伝わったかを論じるには、資料の年代、交流の経路、途中の伝承など、別の根拠が要る。この比較表だけでは、独立に生まれたとも、同じ起源から広まったとも決められない。
物語を「食を共にするとその世界に属する」と読むことも、本文そのものと同じではない。解釈を考える時は、まずどの資料のどの場面を読んだかを書き、その次に自分がどう受け取ったかを分けて残す。
それぞれの原典と読める本
二つのメソポタミア資料は、上記の大学公開訳で該当行を読める。日本語で読み進めたい時は、次の書名と収録箇所を手がかりにできる。出版社の書誌情報は、読みたい章がどの本に収まるかを確かめる入口になる。
- イシュタル:矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』ちくま学芸文庫。「イシュタルの冥界下り」併録。イナンナのETCSL本文の代用にはしない。
- 日本:倉野憲司校注『古事記』岩波文庫。上つ巻の黄泉の国の段。
- ペルセポネー:沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讚歌』ちくま学芸文庫。「デーメーテール讃歌」。
- オルペウス:中村善也訳『オウィディウス 変身物語(下)』岩波文庫。巻十。
この棚から次に読む
- イザナギの黄泉下り — 一夜の語り — 『古事記』の物語を読む
- ペルセポネーの冥界下り — 一夜の語り — 娘と母の物語を読む
- イシュタル — メソポタミア神話の名鑑 — 女神の系譜と逸話を確かめる
- オシリス神話 — 一夜の語り — エジプトの物語へ進む
ユキのメモの見出しは「イナンナ/イシュタル」の併記のままである。名を二つ書いたその下に、今夜は翻訳書の書名を一つ書き足せば十分である。