「見てはいけない」と言われた者が、見てしまう。世界中の神話に繰り返し現れるこの型の、日本でいちばん古い形が、古事記に伝わるイザナギの物語である。
この物語の骨子 — 短い答え
イザナギの黄泉下りは、古事記の上巻に伝わる物語である。火の神を産んで亡くなった妻イザナミを連れ戻すため、イザナギは死者の国である黄泉の国へ降りる。しかし「見ないで」という約束を破って変わり果てた妻の姿を見てしまい、追われて地上へ逃げ帰る。境の坂での言い渡しが人の生死の定めの由来となり、帰還後の禊からアマテラスら三柱の神が生まれる。本記事は倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫)に依拠する。
なお、古事記の神々はいまも神社に祀られる生きた信仰につながっている。この記事は文献のうえの物語としてだけ読み、信仰や参拝には触れない。
語りの前に — 原典と再話の区分
再話は古事記上巻の筋に沿う。御殿の暗がりや逃走の息づかいといった情景は語りの補いで、出来事の順序、投げられた品、坂で交わされる言葉の内容は原典のとおりである。原典の文章を写すことはせず、語り部の言葉で語り直す。日本書紀に伝わる別の形は、語りのあとの異伝の節でまとめて扱う。
一夜の語り
ここからは館の語りです。原典に基づく再話(創作)であり、場面の描写や言い回しは語り部のものです。原典での伝わり方は、このあとの「原典ではこう伝わる」と出典欄で確認できます。
国々と神々を生んだ夫婦神、イザナギとイザナミの物語である。イザナミは火の神カグツチを産んだとき、ひどい火傷を負ってこの世を去った。イザナギは嘆き、腰の剣でわが子カグツチを斬った。それでも妻を諦めきれず、死者の住む黄泉の国へと降りていく。
黄泉の御殿の、閉ざされた戸の前でイザナギは呼びかけた。私たちの国造りは、まだ終わっていない。帰っておいで。戸の向こうから、なつかしい声が答える。もっと早く来てほしかった。私はもう、黄泉の竈で煮炊きしたものを口にしてしまった。それでも、黄泉の神々に帰れるかどうか相談してみます。その間、決して私の姿を見ないでください。
待つ時間は長かった。イザナギはとうとう、髪に挿した櫛の端の歯を一本折り、火をともして御殿に踏み込んだ。火に照らし出されたのは、腐れて蛆のわいた妻の体と、そこに生まれていた八柱の雷神だった。
イザナギは背を向けて逃げた。よくも恥をかかせましたね、とイザナミは黄泉の醜女たちを差し向ける。イザナギは髪飾りを投げた。飾りは山ぶどうに変わり、醜女たちが実をむさぼる間に距離を稼ぐ。追いつかれそうになると、こんどは櫛の歯を投げた。歯は筍になり、また追っ手の足を止めた。それでも雷神たちと黄泉の軍勢が迫る。地上との境の坂、黄泉比良坂の麓まで来たとき、イザナギはそこに実っていた桃を三つもいで投げつけた。追っ手はことごとく引き返していった。イザナギは桃に、人が苦しむときにも同じように助けよ、と名を与えたという。
最後に、イザナミ自身が坂を上ってきた。イザナギは千人がかりで引くほどの大岩で坂を塞ぎ、岩を挟んで二柱は別れの言葉を交わす。愛しい人よ、こうなった上は、あなたの国の人々を一日に千人絞め殺します。愛しいわが妻よ、それならば私は、一日に千五百の産屋を建てよう。人が一日に千人死に、千五百人生まれるのは、この言い渡しに始まると語られる。
地上へ戻ったイザナギは、死の国の穢れを落とすため、筑紫の日向の川辺で禊をした。身につけた物を脱ぎ捨てるたび、水をくぐるたびに神々が生まれ、最後に、左の目を洗うとアマテラスが、右の目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノオが生まれた。イザナギは喜び、三柱にそれぞれ昼の世界と、夜の世界と、海原を委ねた。物語は、次の代へと渡っていく。
語りはここまで。ここから先は、原典と出典の話に戻ります。
原典ではこう伝わる
古事記は八世紀初めに成立した、現存する日本最古の書物である。この物語は上巻の神代の段に載り、倉野憲司校注の岩波文庫版では読み下し文と原文の両方で確かめられる。黄泉の国で煮炊きした物を口にすると帰れなくなるという観念はヨモツヘグイと呼ばれ、物語の要になっている。
古事記は、黄泉比良坂を出雲の伊賦夜坂であると書き添え、イザナミの葬られた場所も出雲と伯耆の境の山と記す。ただし、場所の考証や伝承地めぐりはこの記事の範囲の外である。
異伝 — 別の結末・別の系譜
日本書紀は同じ神代を伝えるが、黄泉の国の顛末を本文では詳しく語らず、一書と呼ばれる別伝の側に載せる。細部も古事記と同じではない。一書の一つには、黄泉比良坂で言い争う二柱の間に菊理媛という神が現れ、その言葉をイザナギが褒めたと伝えるものがある。何を言ったのかは、書かれていない。
ツグミが糸を二股のまま織るように、この記事もどちらかに寄せず、二つの書物の伝えとして併記しておく。異伝の確認には坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫)を用いた。
読める本と出典
依拠した校注書は倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫、岩波書店)である。この物語の続きは、禊で生まれたアマテラスが岩戸に隠れる天岩戸の語りに渡る。アマテラスという神そのものの系譜と呼び名はアマテラスの名鑑で確かめられる。
死者の国へ降りて帰る物語は、日本だけのものではない。ギリシャのペルセポネー、メソポタミアのイナンナと並べて読むなら、冥界下りの棚が次の一夜になる。

