イシュタルには名前が二つある。イシュタルはアッカド語の名、イナンナはシュメール語の名で、メソポタミアで二つの言語が入れ替わりながら使われた歴史をそのまま映している。ゲームで見かけて検索すると両方の名前が出てきて混乱しやすいが、間違いでも別人でもない。この名鑑は、矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』(ちくま学芸文庫、イシュタルの冥界下りを併録)に依拠して、この二つの名前ごと女神を案内する。
何の神か — 短い答え
イシュタルは愛と豊穣、そして戦いを司る女神で、明けの明星・宵の明星である金星と結び付けられる。恋と戦という性格の異なる領分を一柱で併せ持ち、ギルガメシュ叙事詩の中では、英雄に求婚する情熱と、断られて天の牛を差し向ける苛烈さを続けざまに見せる。愛の女神という言葉から想像されるより、ずっと振れ幅の大きい神である。
古代メソポタミアの都市ウルクでは、天の神アヌとともにこの女神が祀られ、ギルガメシュ叙事詩の冒頭にも、ウルクの聖域エアンナが天の神アヌとイシュタルの住まいとして登場する。
名前と呼び方
シュメール語のイナンナが先にあり、アッカド語を話す人々が同系の女神をイシュタルの名で受け継いだ。楔形文字の文書は言語をまたいで書き継がれたため、同じ神格が文書の言語によって別の名で現れる。これはイシュタルに限らずメソポタミアの神々に広く見られる事情だが、イシュタル/イナンナはその代表例として覚えておくと、ほかの神の名前の揺れにも驚かなくなる。
領分と象徴
領分は愛と豊穣、戦い、そして金星である。金星が明け方と夕方で別の顔を見せる星であることは、この女神の二面性と重ねて語られることが多い。図像の伝統では星の記号やライオンとともに表されることが知られるが、これは粘土板の文書ではなく印章や浮彫など美術資料側の伝えであり、名鑑としては層を分けて押さえておく。
系譜 — 親と近しい者たち
| 関係 | 名前 |
|---|---|
| 父(ギルガメシュ叙事詩) | 天の神アヌ |
| 父(イシュタルの冥界下り) | 月の神シン |
| 姉 | 冥界の女王エレシュキガル |
| 若き日の恋人と語られる神 | タンムズ(シュメール語名ドゥムジ) |
同じ翻訳書に収められた二つの文書が、父の名を別々に伝えている点に注目してほしい。叙事詩では、天の牛を求めてイシュタルが父アヌのもとへ行く。冥界下りでは、イシュタルは月の神シンの娘と呼ばれる。系譜が文書ごとに違うのは伝承の古さと広がりの証拠であり、この名鑑ではどちらかに決めず二つのまま記す。
主な逸話
求婚と天の牛のくわしい顛末はギルガメシュの語りの記事に譲り、ここでは女神の側から流れをつかむ。
- ギルガメシュへの求婚。身を清めた英雄ギルガメシュの美しさを見て、イシュタルは結婚を申し出る。ギルガメシュは、タンムズをはじめ彼女がかつて愛した者たちがどんな末路をたどったかを数え上げて断る。
- 天の牛。怒ったイシュタルは父アヌに迫って天の牛を借り受け、ウルクへ差し向ける。ギルガメシュと友エンキドゥは牛を討ち取るが、この一件は神々の会議でエンキドゥの死が定められる遠因になる。
- 冥界下り。イシュタルは姉エレシュキガルの治める冥界へ下り、七つの門を通るたびに冠や飾りを一つずつ剥がれて、裸のまま冥界に囚われる。地上では実りと生殖が止まり、困った神々のために知恵の神エアが使いを作って救い出す。イシュタルは命の水を振りかけられ、七つの門で飾りを順に返されて地上へ戻る。
異伝 — 別の伝わり方
- 父の名。前述のとおり、アヌの娘とする伝えとシンの娘とする伝えが併存する。
- 冥界下りの結末。アッカド語版のイシュタルの冥界下りは短く、結びの部分は恋人タンムズをめぐる哀悼の場面を思わせる形で閉じる。一方、より長いシュメール語のイナンナの伝えでは、地上へ戻る代わりの身代わりが求められ、ドゥムジ(タンムズ)が冥界へ引かれていく筋が語られる。同じ物語の骨組みが、言語と時代をまたいで別の結末を持つ例である。
他の神話の似た神
女神が冥界へ下り、地上の実りが止まる筋立ては、ギリシャ神話のペルセポネーの物語と響き合う。また、愛の女神としてのイシュタルは、地中海世界の女神たちとの影響関係が学問上論じられてきた。ただし影響の道筋は断定できる話ではなく、この館では、似た筋を並べて語り分けを楽しむところまでを受け持つ。読み比べは冥界下りの棚が入口になる。
原典と読める本
この記事は矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』(ちくま学芸文庫)に依拠した。表題作の第六書板で求婚と天の牛の一部始終が読め、併録のイシュタルの冥界下りで冥界の物語まで一冊で追える。粘土板の欠けがそのまま訳文の欠けとして残る翻訳で、最初は読みにくく感じるかもしれないが、その欠けごと読むことが、四千年前の文書を手に取るいちばんの近道である。