トリックスターとは、いたずらや策略で秩序をかき乱しながら、その結果として文化や恵みを神々や人にもたらす、両義的な登場者を指す神話研究の用語である。北欧神話のロキ、日本神話のスサノオ、北米先住民の伝承のコヨーテや大ガラス、ギリシャ神話のヘルメスが、この枠で並べて論じられてきた。本記事は四者の逸話を比較し、共通の型と学説の系譜を紹介する。依拠したのは谷口幸男訳『【完全版】エッダ 古代北欧歌謡集』(新潮社)、倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫)などで、書誌は出典欄にまとめた。
同じ問いとは何か — 秩序を乱す者がなぜ物語に欠かせないのか
宵の口の囲炉裏の前で、ユキがスマホの画面を差し出したことがある。ゲームの編成画面に、ロキとスサノオが並んでいた。「この二人、同じ枠って本当ですか。結局ロキって、悪者なんですか」。
この問いに、神話の側は善悪の欄を用意していない。どの体系にも、規則を破り、場を引っかき回し、それでいて物語から取り除くと世界が回らなくなる者がいる。壊す行いと恵みを運ぶ行いが同じ一人から出てくる——その割り切れなさをまとめて眺めるために、研究者たちが持ち出した道具がトリックスターという言葉である。つまりこれは神々の側の肩書ではなく、読む側の棚の名前である。
体系別の語り分け — 四人の乱す者を表で見る
| 登場者 | 体系 | かき乱す逸話 | 運んでくる恵み | その後 |
|---|---|---|---|---|
| ロキ | 北欧 | 女神シヴの髪を刈り落とす。バルドルの死に関わる | ミョルニルなど神々の宝を得る取引を仕掛ける | 縛められ、最終戦争では神々と敵対する |
| スサノオ | 日本(記紀) | 高天原で田を壊し、機屋に馬を投げ込む | ヤマタノオロチを退治し、草薙の剣を献上する | 追放の後、出雲に宮を構える |
| コヨーテ・大ガラス | 北米先住民 | 貪欲と好奇心で失敗を重ねる | 火や光を人の世に運ぶ | 滑稽譚の主役であり続ける |
| ヘルメス | ギリシャ | 生まれたその日にアポロンの牛を盗む | 竪琴を発明し、贈って和解する | オリュンポスの伝令神になる |
北欧 — ロキ
エッダの伝えるロキは、神々の一員でありながら巨人の血を引き、姿を変え、性別さえ越える。女神シヴの髪をふざけて刈り落としたロキは、償いのために小人たちを競わせ、結果としてトールの鎚ミョルニルをはじめとする宝の数々を神々にもたらした。攪乱がそのまま恵みの入口になる、この型の見本のような逸話である。一方で、光の神バルドルの死をめぐるロキの関与はスノッリのエッダで詳しく語られ、ロキは捕らえられて岩に縛められる。最終戦争ラグナロクでは、神々の敵として戦場に現れる。系譜と逸話の全体はロキ — 北欧神話の名鑑に、最終戦争の顛末はラグナロク — 一夜の語りに置いた。資料によって位置づけの濃淡があることも、名鑑で併記している。
日本 — スサノオ
『古事記』上つ巻のスサノオは、高天原で田の畔を壊し、御殿を汚し、機屋に皮を剥いだ馬を投げ込む。この乱暴が姉アマテラスの岩戸ごもりを招き、世界から光が消えた——その顛末はアマテラスと天岩戸 — 一夜の語りで語っている。神々に追放されたスサノオは、しかし出雲に降りると別の顔を見せる。ヤマタノオロチを退治してクシナダヒメを救い、尾から出た草薙の剣をアマテラスに献上し、宮を構えて出雲の祖神となる。天上の乱暴者と地上の英雄という二つの顔の落差が、スサノオをトリックスターとして読む見方の根拠にされてきた。ただしこれは研究上の一つの読み方であり、記紀自体がそう呼んでいるわけではない。なお記紀の神々は神道として今も生きた信仰につながる存在であり、本記事は文献の物語の比較に留める。
北米先住民 — コヨーテと大ガラス
北米大陸の口承伝承では、平原や高原の物語にコヨーテが、北西海岸の物語に大ガラス(レイヴン)が繰り返し登場する。大ガラスが光を独り占めする者のもとから太陽や光を盗み出して人の世に放ったという型や、コヨーテが火を運ぶ一方で貪欲と好奇心から失敗を重ねる滑稽譚が広く知られている。文化をもたらす英雄の顔と、笑いものになる道化の顔が同じ一人に同居しており、『世界神話事典』が「トリックスター・文化英雄」と一項目でまとめて扱うのもこのためである。口承のため地域差が大きく、一つの正典を持たないこと自体が、この伝承群の特徴といえる。
ギリシャ — ヘルメス
「ヘルメース讃歌」(第四番)の伝える生まれたばかりのヘルメスは、朝に生まれ、昼には亀の甲羅から竪琴を発明し、夕方には兄アポロンの牛の群れを盗み出す。足跡をごまかすために牛を後ろ向きに歩かせ、問い詰められてもしらを切るが、最後は竪琴を贈ることでアポロンと和解し、神々の伝令としての地位を得ていく。盗みと発明と交渉が一続きの物語になっており、ヘルメスをトリックスターの系譜で読む議論もある。旅人や商人、そして盗人の守り神とされるその後の顔も、境界を行き来するこの神の性格と地続きである。
共通する型 — 攪乱と恵みは一枚の表裏
四者に共通する型は、次の三つに整理できる。
- 境界を越える。神々と巨人の間のロキ、天上と地上の間のスサノオ、人と獣の間のコヨーテ、神々の世界と人の世を行き来するヘルメス。どの体系でも、乱す者は二つの領域の境目に立っている。
- 攪乱と恵みが同じ行為から出る。髪を刈った償いが宝になり、追放の先で大蛇退治が起き、盗みの決着が竪琴の贈与になる。壊すことと運ぶことが別々の場面ではなく、一続きの物語として語られる。
- 罰を受けても、物語から消えない。縛められ、追放され、笑われながら、次の物語にはまた現れる。排除しきれないことが、この型の登場者の証のようになっている。
違いが出るのは結末の位置づけである。ロキは最後に神々の敵に回り、スサノオは英雄から祖神になり、コヨーテは道化のままで居続け、ヘルメスはオリュンポスの正規の一員に収まる。同じ型から出発して、四つの体系は乱す者の行き先をまったく別の場所に定めた。
違いが生まれた背景 — 学説の系譜を併記する
トリックスターという言葉が神話比較の用語として広まったのは、北米先住民の伝承研究を通じてだとされる。とりわけ人類学者ポール・ラディンによるウィネバゴの伝承研究は、心理学者ユングらの論考とあわせて刊行され、この概念を広く知らせるきっかけになったといわれる。ユングの系譜では人の心に共通する元型の現れとして読む立場があり、対立する二つの項を媒介する存在として構造から説明する立場もある。日本では、道化や境界という視点からこの概念を展開した山口昌男らの仕事が知られている。
ただし、どの説も読み方の提案であり、ロキやスサノオがそのために語られたと証明するものではない。トリックスターという枠は遠い体系を並べて見せてくれる便利な棚である一方、個々の物語が持つ文脈をならしてしまう危うさも指摘されてきた。この記事が枠を「読む側の道具」と繰り返すのは、そのためである。
それぞれの原典
本記事が依拠した翻訳書と事典は次のとおりである。
- 北欧: 谷口幸男訳『【完全版】エッダ 古代北欧歌謡集』新潮社。ロキの逸話は詩のエッダとスノッリのエッダの双方にわたる。
- 日本: 倉野憲司校注『古事記』岩波文庫。スサノオの乱暴とオロチ退治は上つ巻にある。
- ギリシャ: 沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讚歌』ちくま学芸文庫。第四番がヘルメース讃歌である。
- 北米と概念の整理: 大林太良・伊藤清司・吉田敦彦・松村一男編『世界神話事典 創世神話と英雄伝説』角川ソフィア文庫。「トリックスター・文化英雄」の項がある。
この棚から次に読む
- ロキ — 北欧神話の名鑑 — 系譜・呼び名・逸話を、伝えの幅ごと確かめる
- アマテラスと天岩戸 — 一夜の語り — スサノオの乱暴が招いた、光の消えた夜
- ラグナロク — 一夜の語り — 縛を解かれたロキが敵として立つ最終戦争
- 洪水神話の比較 — 同じ問いを五つの体系で読む — 隣の列に並ぶ、もう一つの共通の問い
帰り際のユキのメモに、善悪の欄はなかった。「境界を越える者」という一行と、『エッダ』か『古事記』か、今夜選んだ書名が一つ。棚の使い方としては、それで満点である。
